ルシフェルを名乗ることについて
私はつい最近まで自分の欲望のことしか考えておらず、過去に放蕩の限りを尽くしており、周りの迷惑を顧みずにやりたい放題していました。
そこでとある一人の女性と出会ったのです。
その女性は私がどんなにひどい態度をとったり、試すような行動をとっても変わらぬ愛情を与えてくれたのです。
私の人生にとって彼女は女神か菩薩のような人でしたが(私は彼女にリリス的なものを感じました)、いろいろあって私は彼女から離れました。
離れたあと悟ったのです。
「今までやりたい放題やったし、これからは世の中のためになることをするか」
私は少しでもいいから人々のためになるような活動をしたいと思いました。
その一環で保育と教育の仕事をしました(保育は彼らが私の話を聞ける状態ではなかったので辞めました)。
するとどうでしょう。
割いた時間以上の喜びが私に返ってきました。
私が割いた時間は彼らの血となり肉となり、そしてこの日本を作ってく・・・
ブッダの言う『理性的な喜び』とはこのようなことなのかと思いました。
中学生の高校受験を教える過程で、まだまだ日本の教育システムの未熟性を感じずにはいられませんでした。
日本の学校はテストの点の取り方を教えるだけで、彼らにこの高度情報化時代をどう生きるのかという、人生で最も重要な『生き方』について何一つ教えていなかったのです(公民は多少役に立つでしょうか)。
テストでいい点を取れなかったり、親や教師に服従しないから劣等生なのでしょうか?
誰だって何かひとつはいいところがあります。
アメリカの属国扱いされても仕方ないような教育体制だと思います。
GHQの洗脳政策の弊害とは言え、戦後何十年も経っているのだからそろそろ植民地根性から脱却してもいいはずです。
私は表現活動を通じてこのような状態に一石を投じたいと思います。