天才少年革命家ゆたぼん氏に思うことをつらつらと述べます
出先なのでラフな記事なります。
YouTube業界では各方面で話題沸騰のゆたぼん氏ですね。
私の見解を述べたいと思います。
まず違反の可能性のある項目です。
1.日本国憲法に定められた教育の義務
2.YouTube対象年齢(13歳)以下での利用
ゆたぼん氏の動画を全部見たわけではないのですが、「学校に行かない代わりに家で勉強してます!」といった発言は見られませんでした。
〇個人的な感想
私個人の感想としては
「各家庭の事情だし困るのは本人なので他人がとやかく言うことではないのではないか」
というものです。
世の中は自己責任です。
いじめなどの不可抗力で不登校になったのなら話は別ですが、自分の意志で学校に行かないのであれば後々困るのは自分です。
〇YouTuberの反応
シバターさん「親の虐待じゃね?」
KUNさん「自分は高校のとき辞めようかと思ったけど、なんとか大学まで出て就職した人間だ。でも幼卒で成功されたら確かに腹立つかもね~」
宏洋さん「目が死んでる。宗教団体でよく見る、自分の意志で話していない人間特有の目をしている」
イケハヤさん「素晴らしい。どんどんやれ」
などです。
虐待やコントロール説は立証し得ないのでなんとも言えませんが、小中高大と一生懸命勉強して就職して安月給で毎日満員電車に揺られて人間関係ストレス感じている人からしたら、幼卒で自己主張したり成功されたりしたら許せないのかもしれませんね。
〇黒幕?
ここで問題になるのは父親の存在ですね。
子供に
「学校行きたくない」
と言られたときに
「さあ、YouTubeやろう。仮想通貨や講演会も宣伝してくれ」
となるでしょうか。
確かご職業はカウンセラーとのことでしたが…
仮想通貨などは大人の私でもよくわからないシステムなのに、ゆたぼん氏が仕組みを理解して宣伝などするのでしょうか。
講演会もスケジュールやカンペを作ったり、会場おさえてチラシ作って宣伝するという、大人の私でもあまり気が進まない作業をゆたぼん氏が率先してやりたがるでしょうか。
〇教育に対する感受性
ホリエモン「日本の教育はクソ。刑務所と同じ」
私もそう思っていました。
私は常々
「学校と少年院ってどう違うんだろう?」
と思い(異性がいるかいないかだけです)、学校卒業のたびに
「やっと解放された」
と思ったものです。
この辺は個人の感受性の問題なので皆がそう思わないかもしれませんね。
この辺はJ-POPが好きかどうかで分かれるようですがまた今度。
〇総括
様々な意見が飛び交う中、ゆたぼん氏の存在は世の中に一石どころか隕石を投じる結果になったようですね。
私でも幼卒の人が『年収1億~』と言われたら
「週四で塾行った日々はなんだったんだ…」
と思うかもしれませんね。
今は私は自由業なので
「自己責任じゃね?」
と思う次第です。
今後の彼の活動に注目ですね。
信仰心とは人間の本能である説を提唱してみた
宗教と言うともしかしたら怪しいイメージを持たれる方もいるかもしれません。
しかし古今東西に宗教は存在します。
なぜだろうと私なりに考え続けた結果一つの仮説に到達したのです。
『信仰心とは人間の本能なのではないか?』
⬆抽象的
神
人間
動物
⬇具体的
という構造上に人間を規定すると、人間は動物に比べて理性を手に入れたわけです。
私はこの『理性』が本能としての信仰心の源なのではないかと思うのです。
動物にも、もしかしたら信仰心や敬虔な心があるかもしれない。
彼らは自然と一体です。
もしかしたら我々より神に近いかもしれない。
しかし彼らの思考を解析出来ない以上、彼らが我々より神に近い証明が出来ないのです。
言語がない点で我々より神に近いと言えばそれまでかもしれません。
話はそれましたが、一度信仰心を人間にのみ許された特権だとします。
するとキリスト教からアフリカの未開地まで信仰はあるのです。
思えばこの世の森羅万象を神秘と科学の二項対立とすると、我々は科学で説明出来ないものを畏れ、神性なるものとしたのかもしれません。
神秘
⬇人類の進歩
科学
人類の進歩とは常に神秘から科学への歩みのように思えます。
科学が神秘の領域を征服していくイメージです。
科学がいくら発展しても解析されない領域、人間の心理と神性。
まだまだ人類は進歩の余地があるのかもしれません。
科学の進歩とは神秘の領域を征服していくと共に、人類が神に近づくための手段でもある。
そう考えると面白いですね。
ゆとり教育はそんなに悪かったのか?~SNSの及ぼす影響とともに~
今から8年ほど前の2010年頃、私は20代後半でした。
(年齢がばれてしまうかもしれませんね)
その頃私はヴィジュアル系バンドで売れることを夢見て日夜活動していたのですが、その頃のバンドメンバーに私より6歳ほど年下のいわゆる『ゆとり世代』と言われる人たちが加入したのです。
私(ドラム)とベースが当時アラサー世代、ギターとボーカルがゆとり世代でした。
私が昭和生まれに対して彼らは平成生まれでもあります。
以下、特定のサンプルを全体化するのは危険だとは思いますが、私の当時の所感を述べたいと思います。
多感な時期の流行歌や世の中の流れがお互い違うことにより、多少のジェネレーションギャップはやはりあります。
しかし彼らは驚くべきことを言ってきたのです。
彼ら「バンド内敬語やめませんか?」
私&ベース「えっ(なにそれこわい)」
バンド内での連携を強化するために敬語廃止という案も一理あるかもしれません。
しかしそれは年上の私たちから提案されることなのではないか…私とベースは首をかしげました。
彼らの特筆すべき点としてはネット文化が当たり前になっている点です。
私たちの世代では10代後半から20代前半にかけてmixiやモバゲーなどのソーシャルネットワーキングサービス(SNS)が台頭していますが、彼らは10代前半にはそれらに親しんできたのです。
そう、彼の掲示板サイトですらも。
彼らの間ではネット掲示板で「叩く」「叩かれる」というのが当たり前になっていたようで、私にはない感覚でした。
彼らからは私たちの世代の人間に見られるような角が立っておらず、均質化されているような印象を受けました。
私はゆとり教育の全容を理解しているわけではありませんが、彼らにゆとり教育の概要を聞くと
「教科書の内容をかなり削られた」
とのことです。
教科書のカリキュラムを大幅に削ったことでゆとり世代に見られる均質化が起こるのだろうか…?
私は長年考えていましたが、もしかしたら一理あるのかもしれません。
教育のカリキュラムを削ることによって人格形成になんらかの影響を及ぼした可能性はあります。
しかし、ゆとり教育と同時期に台頭したネット文化の存在も無視出来ません。
教育よりもネット文化の方がより親密に接する機会が多いからです。
教育よりもネット文化の影響の方が大きいのではないか?
一部で言われるように、ゆとり教育によって育てられた世代を『ゆとり世代』と括り、「これだからゆとり世代は~」というような論調もあまりよくないのではないかと思うのです。
なぜなら彼らにとってゆとり教育を施されたことは不可抗力だからです。
平成も終わりに近づき、ゆとり世代も企業内でそれなりの地位を築いたり、家庭を持つ人もいるでしょう。
我々昭和生まれも「これだから昭和生まれは~」言われないようにしたいものですね。
サイコパスの見分け方
※以下の文章は私の独断と偏見が混じっています。
私たち~じゃん!
こういうことを言われて相手を信じていて、気づいたら自分だけ損している…
そんなことありませんか?
サイコパスという単語自体は、とあるカウンセラーによると医学用語ではないとのことです。
しかし現実として共感性が薄く、人を利用するタイプの人間が存在するのも事実です。
もしかしたら医学が現実に追いついていない可能性もありますが、1番考えられるのは仮にサイコパスの疑いがある人に『サイコパス診断』をしたとしても、賢いサイコパスはそれをくぐり抜けると思われます。
従って医学の領域ではサイコパスは検知し得ないのではないか。
これが私の仮説です。
さて、データは少ないものの、私は人生で何名かサイコパスと思わしき人物に出会いましたが、いくつか共通点があります。
1.端から見ると人間的魅力に溢れているように見える
2.お金の支払いを異常なほど嫌う
3.共通の知り合いを褒めると「そんなことはない」と異常なほど否定する
4.気づいたら利用されている
私が見てきたサイコパス疑惑の人3名のうち2名の血液型がO型なのにも注目ですが、全員ではないのでO型サイコパス説にはいたりません。
B型とAB型は裏表が少ないのでサイコパスではないように思えます。
注目すべきは3です。
知り合いが自分と共通の知り合いを褒めたとき、あなたはなんと言いますか?
「ああ、そうだよね」
「んー、どうだろうね」
くらいだと思います。
サイコパス疑惑の人たちはなぜか
「いや!絶対そんなことはない!」
と必死になって否定するのです。
つまり「この人おかしいな」と思ったら共通の知り合いを褒めて反応を見る。
これが私が提唱するサイコパスを見分ける方法です。
最近病んでる現場監督さん多くない?
最近雑工として建築現場に来て思うのですが、精神的に病んでる監督さんが多いように思えます。
「荷物つけたまま仕事するの?」
→そこに荷物置いといてで済む話です。
「ん?何?帰れば?」
→人としてお疲れさまくらい言えないのかと…
言い回しにとげがあったり、屈折した言い回しをしてくることが多いのです。
納期、予算、職人・顧客対応。
彼らの考えや苦労は我々の想像を超えることでしょう。
建築現場でのヒエラルキー(権力構造)は私の知る限りこのような形です。
顧客>職人>監督>派遣(雑工)
従って我々雑工に八つ当たりしてもおかしくないのではありますが、何もそんな言い方しなくてもいいのになと思います。
私の友人も工務店のような仕事をしているのですが、
「職人はうるさいやつが多い」
と言ってました。
「顧客に呼ばれる立場なのに高飛車なんて凄いね」
と私が言うと
「そんなもんだと思ってた」
と友人は言いました。
考えられない話です。
もちろん全員ではないでしょうが、顧客に対して高飛車になれる人がいるとは私は驚きでした。
私たち雑工は代わりはきくわけですから、お客さんに高飛車な態度を取れば即呼ばれなくなります。
すると生活の安定に直結します。
職人さんは特殊技能だからそういった発想はないのでしょうか。
友人の話では文句の多い職人さんはやはり暇なことが多いため、友人にさんざん文句を言った後連絡してきて「仕事ない?」と聞いてくるそうです。
友人がよく呼んでいる職人さんは技能もさることながら『人間が出来ている』そうです。
家族もきちんと運営し、呼んでくれている人に敬意を持って接する。
それだけで収入もさることながら人生の充実度桁違いになると思います。
我々雑工の世界にも文句の多い人はいます。
内勤の方に現場の文句ばかり言う人もいます。
しかし仕事が忙しい時期はそれでもいいかもしれませんが、世の中全体や会社単位で仕事量が薄くなってきたときにそれでは自分の首を絞める結果となります。
協力会社として呼んだ相手にも呼ばれた相手にも敬意を表する、これが資本主義社会で生きていく処世術でもあると思います。
私は機会があればこのことを若い世代に伝いたいと思います。
機能不全家庭とバンド・水商売の親和性
私は大学を出て以降人に自慢できるような人生を送ってきたわけではありませんが、バンドや水商売の世界に身をやつすことによって真っ当に生きてきた人とは違った視点で世の中を見ることが出来るのではないかと思っています。
バンドや水商売特有の闇、音楽や非日常の空間における疑似恋愛など刺激を求めてしまうのはなぜなのか。
彼らの何がそうさせるのか?
彼らは何を求めているのか?
これらの業界において様々な人に共通するキーワード。
機能不全家庭
AC(アダルトチルドレン)
発達障害
アスペルガー
これらは私が心理学を学んで身につけた知識ですが、今思い返してみると
「あの人ACだったんだな」
「あの人アスペルガーの傾向あるな」
などがわかってきます。
これらの人に共通するのが
「強い刺激を求める」
傾向があるようです。
諸説ありますが今のところの私の仮説では親がACまたは発達障害だった場合、親の愛情が適切でなかったり理不尽な言動をされたりと子供も高い確率でACになります。
自力では修復出来ないほどに心が傷つき、親の適切な愛情が得られなかった人の治癒の方法がきっとお金であったり音楽であったり強い刺激であったりするのかなとというのが私の経験則に基づく所感です。
彼らは何を求めているのか?
潜在的には親の愛情を求めているという仮説を私は立てています。
なぜなら親の適切な愛情不足でこうなっているからです。
もう少し心理学を学ばなくてはなりませんね・・・
日本の教育はそんなに悪いのか?
日本の教育はみなさんにとってどんなものでしょうか。
私としては意地でも日本では子育てしたくないくらいには最悪ですが、低い犯罪率、高いモラル、戦後復興のスピードなどを考えるとあながち悪くないように思えます。
『ゆとり教育』も人の苦労が少しは分かるようになった今では「色々考えた結果なのかな」と思います。
インターネットの普及などに起因する急速なグローバル化に対応しきれてないのは問題です。
日本の教育を制定した時点ではここまでヒト・モノ・カネが国境を越えることは予想がつかなかったのでしょう。
今まで日本の教育・行政のシステムで曲がりなりにも日本は運営できていたわけですから、何がそんなに問題なのでしょうか。
私は一番の問題は自殺率だと思っています。
ところでお隣韓国と比較してみましょう。
日本と韓国は
1.陸続きに正常な国交のある隣国がない
2.学歴社会である
という点で非常によく似ています。
そして二国に共通するのが自殺率の高さ。
学歴社会と自殺率の高さがどういう関連性があるのかは今後調査したいと思います。
福祉とお金のバランスは難しい
私は将来的には学習支援NPO法人を主催したいと思っているのですが、実際にはかなり厳しいようです。
予算をもらえる1年に1回のコンペに負けて事実上解散となった学習支援NPOを私は知っています。
世の中のためになりたいという人たちにも生活があるわけで、お金がなくては生活できません。
ボランティア精神だけでは生きていけないのです。
行政はなぜ非営利団体に対して営利企業と交えてコンペに晒すのか疑問でした。
最近ではCMをバンバン打ってるような大企業がコンペを取っているようで、規模の小さいNPOではコンペが取れないことも多々あります。
確かに営利企業の方が優秀な人材も豊富でシステマティックな運営が可能なのかもしれませんが、NPO法人職員の生活まで考えてもらえてるのでしょうか?
「世の中のためになりたい」という人たちまで資本主義の競争原理に晒すのはかなり大変なのではないかと思いました。
あけましておめでとうございます
あけましておめでとうございます。
2019年となりました。
みなさまどうおすごしでしょうか。
私はと言えば年末年始は友人を家に招き、だらだらとゲームをしたり鍋をしたりしていました。
たまたまテレビをつけたらこのようなニュースを目にしました。
友人と何件か初詣も回ったのですが、たまたま私たちはこの事件に遭遇しなかったもののもしかしたら遭遇したかもしれないと考えると戦慄します。
日本は基本的には平和とはいえ、時折このような凄惨な事件が起こります。
こういった事件の背景には心の闇が隠れていたりします。
こういった事件のない世の中にしたいものです。